友情航海

〜追いつけないメリーゴーランドあるいは雨降りのローラーコースター〜

黒萵苣の花

校内に不審者が侵入した際、その侵入者を刺激せずに生徒にだけそのことを伝え避難を勧告するために、例えば「荷物が届きました」とか「〇〇先生がお見えになりました」というような暗号化された合図を校内放送で流す学校は多いと聞く。私が通っていた小学校にもそれと同様のルールがあった(確か「校長先生がいらっしゃいました」とかそういうものだった気がする)。しかし、それとは別に、不審者や異常者どころではない「本当にやばいもの」が学校に侵入した場合、「たった今、黒萵苣(くろちしゃ)の花が咲きました」というアナウンスが流れる、という噂が生徒たちの間でまことしやかに囁かれていた。私がこの噂を初めて聞いた時は、子供ながらにあまりに突飛な作り話だと思い大して気にも留めていなかったのだが、たった一度だけ、本当にこのアナウンスが流れたことがあった。

 

今でも覚えているが、あれは4年生の夏休みが明けて間もない日のことだった。時刻は正午を少し過ぎたあたり、4時間目の国語の授業中で、ただでさえ退屈な先生の話に真昼の日光と熱気が溶け合って教室中にどろりとした空気が漂っているような時間、その倦怠を切り裂くようにあの奇妙な校内放送が流された。先生は放送を聞いた途端アニメのようにみるみる顔が青ざめていき、絶対にここを動くなと指示したのち教室を飛び出して行った。残された私たち生徒はこの異常事態を前に興奮して騒ぎ出しそうなものだったが、全員何かただならぬ気配を察したのか、ただ石のように座って黙りこくっていた。それは他のクラスも同様だったようで、校舎は数百人の子供を収容しているとは思えないほどの静寂に包まれていた。

 

張り詰めた静けさの中耳をそばだてていると、廊下の向こうの方から何やら声が聞こえてきた。耳障りという感じではないが、性別や年齢が全く読み取れない一種不気味な声である。驚いたことにそれは「君が代の節を全て『ざ』で歌い、その上で逆再生した音声」だった(さすがに自力でこれに気付いたわけではない。これはのちに同じクラスの絶対音感のある友達に教えてもらったことだ。彼はこんなことに気付くぐらいだから実際天才的な音楽センスの持ち主で、当時から稀代のピアニストとして将来を嘱望されていたのだが、ある時から自分がピアノの黒鍵を押すたびに世界のどこかで人が死ぬという妄想に取り憑かれて全くピアノが弾けなくなってしまい、今ではなぜかライフガードの気持ち悪いウサギを描いているイラストレーターのアシスタントをしているらしい)。これが聞こえ始めたあたりからクラスメイトたちの様子が明らかにおかしくなり、声を上げずに左目からだけ涙を流し続ける者や、アメリカと南極の無い世界地図をノートに何ページにもわたって描き続ける者などが現れた。しかしやがて声は止み、クラスメイトも正常に戻って、30分ほど経ってから先生も教室に戻ってきた。この後の記憶は曖昧で、そのまま授業が再開されたのか、あるいは私たち生徒は早退することになったのか、今はもう思い出せない。ただ、この日を境に私たちの日常が何か変容したということはなく、この一件は白昼夢のように忘れ去られ、その2年後に私は何事もなかったかのように小学校を卒業した。あの日学校に侵入した「本当にやばいもの」の正体や、それがなぜ、どのようにやばいのか、ということは分からずじまいである。

 

のちに知ったことだが、「黒萵苣の花」は実在するものらしい。小学生の頃は漢字の当て方も知らなかったし、それを知ってからもずっと架空の植物だと思っていたのでこれは意外だった。黒萵苣とは主に中国西部に自生するレタスの一種で、とはいえその葉は名前の通り暗褐色であり、味は青臭く食感も硬いため食用には適さない雑草として現地では扱われているという。そんな農耕的観点からすれば全く価値のない黒萵苣だが、その花は自然界では珍しい鮮やかな青色で、黒い葉との対比も相まって現地ではちょっとした風物詩となっているらしい。私もインターネットで黒萵苣の花の画像を見てみたが、初音ミクの髪の毛と似た色と形をしている、確かに人目を引きそうな花であった。